堆朱の歴史

彫漆は主に堆朱・堆黒の通称で、朱漆を数十回~数百回余り塗り重ねて、彫刻したものを堆朱・堆朱彫りと呼ばれている。朱漆の代りに黒又は黄色を塗り彫刻したものを堆黒・堆黄と言う。その他に、紅花緑葉等があります。紅花緑葉とは、色漆を何層にも塗り重ね、作者の意図により、花は紅・葉は緑になる様に彫る技法です。彫漆法は中国で起こり、日本には鎌倉~室町時代にかけて伝来されたと思われている。それは、中国では唐の時代から作られていたが、盛んに作られたのは宋から元時代頃にかけてです。 この時代に作られた彫漆は、大体三種類で、屈輪・堆朱・堆黒が主です、この時代の屈輪は、元時代以後に流行した屈輪とは異った性格のものとみられていて、この種の屈輪は中国の文献演繁露(えんはんろ)によると、犀皮に相当するものと思われている。  この時期の遺品は、わずか十点位しか知られておらず、中国本土でも遺品は確認されていない様である。元時代の屈輪は主に明時代である。元時代の屈輪は主に明時代以後に著しい展開をみせる。この屈輪に比べると堆朱・堆黒の伝存品は極めて少ない。みせる。この屈輪に比べると堆朱・堆黒の伝存品は極めて少ない。  この時期の彫漆器の製作地は、おおかた浙江省が主とされ、特に抗州や嘉興といった辺りがその主要な生産地であったとおもわれる。  ところで、これら十三世紀を中心とした時期に製作されたと思われる、屈輪・堆朱・堆黒といった彫漆器を見てみるとそこにはいくつかの共通点がみられる。例えば、塗り重ねた漆の層の厚みが後世のものと比較した場合薄いことである。これは決して漆の塗りの回数が少ない事ではない。後の桐油等の混ぜ物を多く含んだ漆を塗っているのと違い、良質の漆を用いた結果、この様な出来上がりを見せている。この様な薄い漆面に刀を入れる事は極めて難しい作業であったと思われる。その事は混ぜ物を入れ比較的柔らかい漆を使い手馴れた技術の枠を示している14世紀の彫漆作品と比べると容易にわかる。  元~明時代初期の漆芸の活動と言えば、彫漆・鎗金・螺鈿が栄んに作られた。  この時期の漆芸芸では、工人の名前が大きくクローズアップされ、記録などに残されている。彫漆は活発な動きを示し、張成、腸茂、周明といった名工が浙江省の嘉興を舞台に活躍することでその最盛期を迎える。彼等三人の作品は堆朱三作と呼ばれている。  処で、この当時の彫漆界でその名をほしいままにしていた三人だが、その在世時期などに関しては詳しく伝えられていない  この時代に製作られたと考える作品には、意匠・材質などに共通点が見られる。意匠だが堆朱堆黒の盆を見ると、一対の鳥を上下に配し残る空間を花文で埋めている、立ち上がりには唐草文様を巡らしている。  花鳥文、立ち上がに唐草文様の組み合わせは十三世紀のものと比べると彫漆盆には見当たらない、また、十五世紀以後においても見当たらない。この組み合わせは、十四世紀当時の流行ではないかと思われる。下地は粗雑でよく乾燥させず、木材も吟味していない為に、ゆがみ・よじれが生じ亀裂があり、作品の状態は悪い。この事は、十三世紀・十五世紀以後は見うけられない。これは、十四世紀の彫漆作品の傾向だと思われる。  明時代の漆芸界は、いろいろな技法が出揃った時期である。  本来の螺鈿・鎗金・彫漆などに加え、てん漆・存星などの技法が新たに創始された。  この時代に製作られた彫漆器には、堆朱・堆黒・堆黄・彫彩漆・屈輪等が見られる。堆朱はこの時代の人々に好まれた手法の一つであっつた。  明時代は、永楽・宣徳の初期と嘉靖・万暦期に分けられる。永楽期と宣徳期の存銘品を見るとその文様は、楼閣人物・鳳凰・龍・花文といった物に集中しており、鳳凰の様な特殊な鳥を取り上げた作品にこそ花文が組み合わされている、十四世紀の彫漆器では、花鳥文が好まれたが、この時代では使用されていないのが興味ぶかい点である。これとは別に、永楽・宣徳には堆黒の作品が見当たらない。十四世紀では、かなり出回っているのに対照的である。この事から十五世紀では堆黒より堆朱の方が好まれたのだろうか。また、屈輪の作品も見当たらないことは、この時代には、この種の技法はあまり好まれてはいなかった。明時代後半に入り嘉靖・万暦期は、永楽・宣徳につぐ第二の黄金期である。嘉靖期で目立った作品は彫彩漆である、これは、日本では紅花緑葉として伝称されている。この作品は早い時期から製作られてが、具体的な作品は嘉靖期までしか確認されてない。  彫彩漆以外で、この時期に製作られていた物は堆朱であり、堆黒の遺品が見あたらないためこの時期に製作られていたか確認されていない。嘉靖期の堆朱の作品をみると、彫彩漆の技法・文様と同じで、永楽・宣徳と同じ文様の他に鶴、桃、寿字といった吉祥文が特徴である。この時期、堆黄が好まれたらしく遺品もかなり多く残っている。  東京国立博物館の龍文様の堆黄盆は堆黄の最も古い作例として有名であり、これと同時に蟹仙洞蔵の龍文様の堆黄盆の最も古い作例として有名であり、これと同時に蟹仙洞蔵の龍文様の堆黄盆とともに、際立った栄えを見せる万暦期彫漆の中でも屈指の作品の一つである。堆黄の他に堆朱、彫彩漆の器物も同様に製作られていた。この時期の文様は、地に花入り菱つなぎ文、波文、霞文といった地文が施されているのが特徴で、地文を表すことのなかった嘉靖期のものと異なる点であり、彫りの技術においても嘉靖期に比べると、一段と巧緻で細密に仕上げられている。龍文様の堆黄長方形盒子と花鳥文様の堆朱長方形盆などが代表的な例である。  嘉靖と万暦期に挟まれた、わずか六年しか統治期間のない隆慶年間の彫漆の制作活動は、文献によると、新安と黄平沙という名工がいて、永楽期の彫漆器に匹敵する作品を製作っていたことが記述されている.  この当時の遺品は殊のほか少なく、文様、彫法、漆の質といったあらゆる面で嘉靖期と酷似しているので、刀刻銘が無かったならば嘉靖期の作品と区別するのは難しい。  清時代の彫漆が盛行したのは乾隆期で、遺品も多くそれらの中には紀年銘のある作品も見られる。この時代の彫漆器に共通するのは、その彫りが実に巧緻になっている点で刀を自由自在に駆使して陰影法または遠近法が巧みに表されており、この技法は明時代までにはなかった技法である。しかしこの時期の漆には、桐油等の混ぜ物が非常に多く加味された、漆分の少ない漆を用いている為に、塗り重ねた漆の層が柔らかく、意のままに刀を操れる状態の物であった。この時代の技術は決して高度なものではなかったといえる。
 漆の質の低下は、嘉靖期頃から始まったと思われ、清時代には著しくその傾向が強くなったことが特徴になっている。
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仙臺堆朱の作品